キリンの海外事例から読み解く!M&Aポイント解説
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国内外のM&Aに精通する専門家が、国内ビール業界の中でも海外展開を積極的に進めてきたキリンHDの海外M&A事例について解説します。(本記事の情報は2022年時点のものです)
*概要* |
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2011年の民政化をうけ、長年にわたる経済制裁が緩和されたミャンマー。「アジア最後のフロンティア」として注目を集めていたこの地に2015年、キリンホールディングスは約700億円を投じて参入します。現地ビールの8割のシェアをカバーする国軍系複合企業ミャンマー・エコノミック・ホールディングス・リミテッド(以下MEHL)と合弁会社「ミャンマー・ブルワリー」を設立し順調に経営を進めていた中、2021年2月に事件は起きます。 |
海外市場参入で企業が改めて向き合うカントリーリスク
—いまキリンの海外事業で何が起きているのか、簡単に教えてください。
現地企業MEHLとの合弁会社「ミャンマー・ブルワリー」の出資比率は、キリンが51%、MEHLが41%です。2021年2月にミャンマー国軍によるクーデターをきっかけに、国軍系複合企業であるMEHLと合弁しているということで、キリンに対する人々の反発が強まり、不買運動や倉庫が爆撃されるという事態に発展しています。
キリン側は合弁を解消したうえで新たな出資先を探す方針を早くから発表していたものの、提携解消には応じず合弁清算を一方的に申し立てるMEHL側と対立、国際裁判を行う準備を進めているという状況です。これらの事態はキリンの決算にも大きな影を落とし、21年4〜6月期に214億円の減損損失を計上、21年通期の純利益の見通しを従来予想の1030億円から865億円に下方修正しました。
*2022年1月現在の情報
今回はM&A等で海外進出する際にふまえておきたい「カントリーリスク」についてお伝えしたいと思います。「カントリーリスク」とは今回の事例のように、特定の国・地域における政治・経済・社会情勢の変化により企業が損失を被るリスクを指します。M&Aは国内の企業同士(IN-IN)のケース、海外の企業を買収する(IN-OUT)のケースがあります。当然の話ながら(IN-OUT)の場合は、国内の時以上に慎重で入念なリサーチが求められます。
カントリーリスクはいわば“地政学”
—カントリーリスクはどのような視点で把握すべきなのでしょうか。
「カントリーリスク」はひとことでいうと「地政学」といえるでしょう。
地政学の「地」、つまり地理的なものは、たとえば最近だとフィリピンが直面している台風、バングラディシュの洪水の問題など地理的な問題が存在します。これらは目に見えるものなので比較的チェックしやすい項目です。気温の上昇による環境の変化によって、最近特に取り沙汰されています
もうひとつは地政学の「政」。政治、と一言でいっても歴史がそこにあります。今の政治に目を向けるだけではなく歴史を紐解かなければならないのです、そこをしっかり認識する。政治といっても人権の問題、軍的な問題、宗教的な問題など、しっかりと考えて調べておくことが重要です。近年は特に人権デューデリジェンスが注目されていますが、広い視点で「地政学的デューデリジェンス」の重要性がいま問われているといえます。
私たちも家を買うとき、すごく調べますよね。売主・仲介するのはどういう不動産会社か、以前に何が建っていた場所だったのか、地形は、歴史は、周辺住民の雰囲気は、教育環境は・・・当然のようにチェックしますよね。
ちなみに、私は現在の自宅を購入するとき「本当にこの土地を買っていいのか」見極めるために、2ヶ月くらい家のまわりを早朝走っていました。個人で家を買う時ですら、それくらい相当な時間をかける必要がある。ましてやそれが企業レベルなら海外市場への参入は、当然ながらそれ以上に慎重に検討を重ねて検討するべきことなのです。
私は様々なM&A事例を長年見てきましたが、今回のキリン社含め、海外市場参入後に苦境に立たされている企業は、こうしたカントリーリスクの把握が十分ではなかった可能性があると考えます。(ちなみに、キリンはブラジルで約3,000億円で現地企業を買収したのちに撤退した過去があります)
—なぜ、そうしたチェックが十分に機能しないことが起こりうるのでしょうか。
まず要因として挙げられるのは、M&Aが限られた期間の中で行われるケースが多いことです。自社だけでなく相手企業ありきのものですから、いつまでに成約しないと破談になる、もしくは競合他社が先に手を組んでしまう可能性がある、という様々な時間の制約、限られた条件の中で取引を進めなければなりません。
経済学で「Cool Head but Warm Heart:冷静な頭脳と温かい心」とよく言われますが、M&Aに限らず企業の運命を左右する大事な局面でいかにCool Headに判断を進められるか、これが非常に重要になります。今回の場合は、限られた条件、期間の中での経営判断にCool Headさが十分でなかったのではないかと推測しています。
キリンの目指すべき姿に、本当にミャンマー進出が必要だったのか
企業の存在意義(パーパス)を明確化し、社会に与える価値を示す「パーパス経営」が注目されていますが「企業の存在意義は何なのか」「10年後、自分たちがどういう企業であるべきか」、大きな枠組みで考えてみる。現状を分析し、そこに向けて現状との乖離を埋めていくのが経営です。M&Aはもとをただせば、その「あるべき企業の姿」の実現を果たすための一手段にほかなりません。
キリンは、社会における永続的、長期的な自社の存在意義をミッションで次のようにあらわしています。
グループ経営理念:ミッション |
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「キリングループは、自然と人を見つめるものづくりで、「食と健康」の新たなよろこびを広げ、こころ豊かな社会の実現に貢献します」 お客様の求めるものを見すえ、自然のもつ力を最大限に引き出し、それらを確かなかたちとして生み出していくモノづくりの技術。私たちは、こうした技術によって、お客様の期待にお応えする高い品質を追求してきました。これからも、「夢」と「志」をもって新しいよろこびにつながる「食と健康」のスタイルを一歩進んで提案し、世界の人々の健康・楽しさ・快適さに貢献していきます。 |
出典:キリンホールディングスホームページ
https://www.kirinholdings.com/jp/profile/philosophy/
—今回の合弁会社では、キリンらしさ、というのはどういうところに現れていたのでしょうか。
聞くところによると、ミャンマーの合弁会社が販売しているビールの味は、もともとの現地のビールの味、クオリティだそうです。個人的には「キリンらしさ」が十分活かされてはいなかったのではないかと考えます。
私は普段キリンの「淡麗グリーンラベル」、よく飲んでます。おいしいうえにカロリーが低くて好きです。キリンの「おいしさを追求し実現させる姿勢」、自分たちの強みとする技術、価値をもってよろこびの連鎖を広げていくという「よろこびがつなぐ世界へ」というスローガンに個人的にもすごく共感が持てます。だからこそ、キリンの追求するおいしさ、クオリティ、安全性、そうしたものが、外で活かされないと意味がないと思っています。
真の意味で自社のブランドが現地で活かせるのかどうか、今回の進出はパーパスに立ち返って本当に考えられたものだったのか。
メーカーとしておいしいものを多くの人に届けようという本質的な部分を見失っていたのではないか。投資目線での海外進出だったのではないか。
仕事柄、当社のお客様ではないですが、海外とのM&Aで苦境に立たされている企業をたくさん見てきました。そうした企業に共通するのは、言葉を選ばずに言えば「受け身」であり「行き当たりばったり」だったということ。たまたま「良い案件がある」と外部から持ち込まれた買収案件を、書面上の数字だけで判断し進めてしまう。
そうならないために、自社のあるべき姿の実現に向けて、M&Aがふさわしいのか、組むならどういった企業が理想的なのか、日頃からアンテナを張って想定しておくことが求められます。
—さらに付け加えるなら「Cool Headさを持って判断する」というところでしょうか。
そうですね。今回お伝えしたポイントは企業規模に関わらず、あらゆる企業に当てはまることだと思います。海外への進出を検討されている方はぜひ参考になさってください。
追記
キリンHDは、2022年2月よりミャンマー事業から撤退する方針のもと協議を進めてきたが、早期の合弁解消を図る手段として、MBLによる自己株式取得が最適な手段であると判断。子会社であるKirin Holdings Singapore Pte. Ltd. (シンガポール、KHSPL)が保有するMyanmar Brewery Limited(ミャンマー・ヤンゴン、MBL)の全株式のMBLへの譲渡を決定した。