キリンの海外事例から読み解く!M&Aポイント解説

皆己 秀樹

プロフィール

皆己秀樹

日本M&Aセンター 成長戦略チャネル(2022年12月時点)

海外M&A
更新日:

⽬次

[非表示]


国内外のM&Aに精通するDr.(ドクター)Mが、身近なM&A事例を用いて、独自の視点でポイントをわかりやすく解説する新企画「Dr.MのM&Aポイント解説」。
第1回で取り上げる企業は「キリンホールディングス」。国内ビール業界の中でも海外展開を積極的に進めてきたキリンで、いま何が起きているのでしょうか。

*概要*
2011年の民政化をうけ、長年にわたる経済制裁が緩和されたミャンマー。「アジア最後のフロンティア」として注目を集めていたこの地に2015年、キリンホールディングスは約700億円を投じて参入します。現地ビールの8割のシェアをカバーする国軍系複合企業ミャンマー・エコノミック・ホールディングス・リミテッド(以下MEHL)と合弁会社「ミャンマー・ブルワリー」を設立し順調に経営を進めていた中、2021年2月に事件は起きます。

海外市場参入で企業が改めて向き合うカントリーリスク

—いまキリンの海外事業で何が起きているのか、簡単に教えてください。

Dr.M  現地企業MEHLとの合弁会社「ミャンマー・ブルワリー」の出資比率は、キリンが51%、MEHLが41%です。2021年2月にミャンマー国軍によるクーデターをきっかけに、国軍系複合企業であるMEHLと合弁しているということで、キリンに対する人々の反発が強まり、不買運動や倉庫が爆撃されるという事態に発展しています。
キリン側は合弁を解消したうえで新たな出資先を探す方針を早くから発表していたものの、提携解消には応じず合弁清算を一方的に申し立てるMEHL側と対立、国際裁判を行う準備を進めているという状況です。これらの事態はキリンの決算にも大きな影を落とし、21年4〜6月期に214億円の減損損失を計上、21年通期の純利益の見通しを従来予想の1030億円から865億円に下方修正しました。 
*2022年1月現在の情報

—このケースをピックアップしたということは、今回のテーマは・・

Dr.M  そう、M&A等で海外進出する際にふまえておきたい「カントリーリスク」についてお伝えしたいと思います。「カントリーリスク」とは今回の事例のように、特定の国・地域における政治・経済・社会情勢の変化により企業が損失を被るリスクを指します。M&Aは国内の企業同士(IN-IN)のケース、海外の企業を買収する(IN-OUT)のケースがあります。当然の話ながら(IN-OUT)の場合は、国内の時以上に慎重で入念なリサーチが求められます。

カントリーリスクはいわば“地政学”

—カントリーリスクはどのような視点で把握すべきなのでしょうか。

Dr.M  「カントリーリスク」はひとことでいうと「地政学」といえるでしょう。
地政学の「地」、つまり地理的なものは、たとえば最近だとフィリピンが直面している台風、バングラディシュの洪水の問題など地理的な問題が存在します。これらは目に見えるものなので比較的チェックしやすい項目です。気温の上昇による環境の変化によって、最近特に取り沙汰されています
もうひとつは地政学の「政」。政治、と一言でいっても歴史がそこにあります。今の政治に目を向けるだけではなく歴史を紐解かなければならないのです、そこをしっかり認識する。政治といっても人権の問題、軍的な問題、宗教的な問題など、しっかりと考えて調べておくことが重要です。近年は特に人権デューデリジェンスが注目されていますが、広い視点で「地政学的デューデリジェンス」の重要性がいま問われているといえます。

私たちも家を買うとき、すごく調べますよね。売主・仲介するのはどういう不動産会社か、以前に何が建っていた場所だったのか、地形は、歴史は、周辺住民の雰囲気は、教育環境は・・・当然のようにチェックしますよね。
ちなみに、私は現在の自宅を購入するとき「本当にこの土地を買っていいのか」見極めるために、2ヶ月くらい家のまわりを早朝走っていました。個人で家を買う時ですら、それくらい相当な時間をかける必要がある。ましてやそれが企業レベルなら海外市場への参入は、当然ながらそれ以上に慎重に検討を重ねて検討するべきことなのです。
私は様々なM&A事例を長年見てきましたが、今回のキリン社含め、海外市場参入後に苦境に立たされている企業は、こうしたカントリーリスクの把握が十分ではなかった可能性があると考えます。(ちなみに、キリンはブラジルで約3,000億円で現地企業を買収したのちに撤退した過去があります)

—なぜ、そうしたチェックが十分に機能しないことが起こりうるのでしょうか。

Dr.M  まず要因として挙げられるのは、M&Aが限られた期間の中で行われるケースが多いことです。自社だけでなく相手企業ありきのものですから、いつまでに成約しないと破談になる、もしくは競合他社が先に手を組んでしまう可能性がある、という様々な時間の制約、限られた条件の中で取引を進めなければなりません。
経済学で「Cool Head but Warm Heart:冷静な頭脳と温かい心」とよく言われますが、M&Aに限らず企業の運命を左右する大事な局面でいかにCool Headに判断を進められるか、これが非常に重要になります。今回の場合は、限られた条件、期間の中での経営判断にCool Headさが十分でなかったのではないかと推測しています。

キリンの目指すべき姿に、本当にミャンマー進出が必要だったのか

Dr.M  企業の存在意義(パーパス)を明確化し、社会に与える価値を示す「パーパス経営」が注目されていますが「企業の存在意義は何なのか」「10年後、自分たちがどういう企業であるべきか」、大きな枠組みで考えてみる。現状を分析し、そこに向けて現状との乖離を埋めていくのが経営です。M&Aはもとをただせば、その「あるべき企業の姿」の実現を果たすための一手段にほかなりません。

キリンは、社会における永続的、長期的な自社の存在意義をミッションで次のようにあらわしています。

グループ経営理念:ミッション
「キリングループは、自然と人を見つめるものづくりで、「食と健康」の新たなよろこびを広げ、こころ豊かな社会の実現に貢献します」
お客様の求めるものを見すえ、自然のもつ力を最大限に引き出し、それらを確かなかたちとして生み出していくモノづくりの技術。私たちは、こうした技術によって、お客様の期待にお応えする高い品質を追求してきました。これからも、「夢」と「志」をもって新しいよろこびにつながる「食と健康」のスタイルを一歩進んで提案し、世界の人々の健康・楽しさ・快適さに貢献していきます。

出典:キリンホールディングスホームページ
https://www.kirinholdings.com/jp/profile/philosophy/

—今回の合弁会社では、キリンらしさ、というのはどういうところに現れていたのでしょうか。

Dr.M  聞くところによると、ミャンマーの合弁会社が販売しているビールの味は、もともとの現地のビールの味、クオリティだそうです。個人的には「キリンらしさ」が十分活かされてはいなかったのではないかと考えます。
私は普段キリンの「淡麗グリーンラベル」、よく飲んでます。おいしいうえにカロリーが低くて好きです。キリンの「おいしさを追求し実現させる姿勢」、自分たちの強みとする技術、価値をもってよろこびの連鎖を広げていくという「よろこびがつなぐ世界へ」というスローガンに個人的にもすごく共感が持てます。だからこそ、キリンの追求するおいしさ、クオリティ、安全性、そうしたものが、外で活かされないと意味がないと思っています。

真の意味で自社のブランドが現地で活かせるのかどうか、今回の進出はパーパスに立ち返って本当に考えられたものだったのか。
メーカーとしておいしいものを多くの人に届けようという本質的な部分を見失っていたのではないか。投資目線での海外進出だったのではないか。
仕事柄、当社のお客様ではないですが、海外とのM&Aで苦境に立たされている企業をたくさん見てきました。そうした企業に共通するのは、言葉を選ばずに言えば「受け身」であり「行き当たりばったり」だったということ。たまたま「良い案件がある」と外部から持ち込まれた買収案件を、書面上の数字だけで判断し進めてしまう。
そうならないために、自社のあるべき姿の実現に向けて、M&Aがふさわしいのか、組むならどういった企業が理想的なのか、日頃からアンテナを張って想定しておくことが求められます。

—さらに付け加えるなら「Cool Headさを持って判断する」というところでしょうか。

Dr.M  そうですね。今回お伝えしたポイントは企業規模に関わらず、あらゆる企業に当てはまることだと思います。海外への進出を検討されている方はぜひ参考になさってください。

追記

キリンHDは、2022年2月よりミャンマー事業から撤退する方針のもと協議を進めてきたが、早期の合弁解消を図る手段として、MBLによる自己株式取得が最適な手段であると判断。子会社であるKirin Holdings Singapore Pte. Ltd. (シンガポール、KHSPL)が保有するMyanmar Brewery Limited(ミャンマー・ヤンゴン、MBL)の全株式のMBLへの譲渡を決定した。

キリンHD、Myanmar Breweryの全株式譲渡、ミャンマー事業から撤退へ(2022年06月30日)

***
日本M&Aセンターでは、M&Aの明確な戦略方針を定めている企業様はもちろんのこと、M&Aを含めた事業戦略を見直したい方から今後M&Aの活用を徐々に検討していきたい方まで、あらゆるご要望に対する相談役として、多くの企業様の成長をサポートいたします。

プロフィール

皆己 秀樹

皆己みなみ 秀樹ひでき

日本M&Aセンター 成長戦略チャネル(2022年12月時点)

一橋大学卒業後、大手金融機関及び大手外資系証券会社で法人営業。その後、大手外資系金融機関プライベートバンキング部の日本支社立ち上げプロジェクトに参画。日本M&Aセンター入社後は、上場企業を中心に M&A戦略からクロージングに至るまで幅広いアドバイスを行う。

この記事に関連するタグ

「買収・合弁企業の設立・海外M&A・上場企業・クロスボーダーM&A」に関連するコラム

大槻代表に聞く!新たなファンドコンセプトを持つAtoG Capital本格始動

広報室だより
大槻代表に聞く!新たなファンドコンセプトを持つAtoG Capital本格始動

2024年9月、日本M&Aセンターグループの一員として新たな一歩を踏み出した「株式会社AtoGCapital」。新たなファンドコンセプトを持つ会社ですが、どのようなコンセプトなのか、その取り組みや設立への想いをAtoGCapital代表取締役の大槻昌彦さんに聞きました。※会社設立は2023年12月、ファンドの1号ファンド設立は9月20日、出資実行完了は2024年10月23日AtoGCapital代

ベトナムM&A成約事例:日本企業との資本提携でベトナムのリーディングカンパニーへ

海外M&A
ベトナムM&A成約事例:日本企業との資本提携でベトナムのリーディングカンパニーへ

ベトナムの成長企業が日本の業界大手企業と戦略的資本提携を実施日本M&AセンターInOut推進部の河田です。報道にもありましたように、河村電器産業株式会社(愛知県瀬戸市、以下「河村電器産業」)が、DuyHungTechnologicalCommercialJSC(ベトナム・ハノイ、以下「DH社」)およびDHIndustrialDistributionJSC(ベトナム・ハノイ、以下「DHID社」)の株

タイにおける日本食市場の2024年最新動向

海外M&A
タイにおける日本食市場の2024年最新動向

コロナ禍から復活最新のタイの飲食店事情日本M&Aセンターは、2021年11月にタイにて駐在員事務所を開設し、2024年1月に現地法人を設立いたしました。現地法人化を通じて、M&Aを通じたタイへの進出・事業拡大を目指す日系企業様のご支援を強化しております。ASEAN進出・拡大を考える経営者・経営企画の方向け・クロスボーダーM&A入門セミナー開催中無料オンラインセミナーはこちら私自身は、2度目のタイ駐

ベトナムM&A成約事例:日本の「ホワイトナイト」とベトナム企業

海外M&A
ベトナムM&A成約事例:日本の「ホワイトナイト」とベトナム企業

今回ご紹介するプロジェクトTの調印式の様子(左から、ダイナパック株式会社代表取締役社長齊藤光次氏、VIETNAMTKTPLASTICPACKAGINGJOINTSTOCKCOMPANYCEOTranMinhVu氏)ASEAN進出・拡大を考える経営者・経営企画の方向け・クロスボーダーM&A入門セミナー開催中無料オンラインセミナーはこちら私はベトナムの優良企業が日本の戦略的パートナーとのM&Aを通じて

シンガポールに代わる地域統括拠点 マレーシアという選択肢

海外M&A
シンガポールに代わる地域統括拠点 マレーシアという選択肢

ASEAN進出・拡大を考える経営者・経営企画の方向け・クロスボーダーM&A入門セミナー開催中無料オンラインセミナーはこちら人件費、賃料、ビザ発行要件、すべてが「高い」シンガポールASEANのハブと言えば、皆さんが真っ先に想起するのはシンガポールではないでしょうか。日本貿易振興機構(ジェトロ)によると、シンガポールでは87社の統括機能拠点が確認されています。東南アジアおよび南西アジア地域最大の統括拠

小さく生んで大きく育てる ベトナムM&A投資の特徴

海外M&A
小さく生んで大きく育てる ベトナムM&A投資の特徴

本記事では、ベトナムでのM&Aの特徴と代表的な課題について解説します。(本記事は2022年に公開した内容を再構成しています。)比較的に小粒である、ベトナムM&A案件ベトナムのM&A市場は、ここ数年は年間平均300件程度で推移、Out-Inが全体投資額の約6~7割を占め、その中で日本からの投資件数はトップクラスです(2018年:22件、2019年:33件、2020年:23件)。興味深いことに、1件当

「買収・合弁企業の設立・海外M&A・上場企業・クロスボーダーM&A」に関連する学ぶコンテンツ

買収先の本格検討・分析

買収先の本格検討・分析

買収先の探し方でご紹介したように、買い手はノンネームシート、企業概要書で買収先についてM&Aを進めるかどうか検討します。本記事では、買い手が企業を検討する際流れと、陥りがちな注意点についてご紹介します。買い手が買収先を検討する流れ企業概要書をふまえ、さらに具体的に検討を進めるに一般的には「M&A仲介会社との提携仲介契約の締結」「個別詳細情報についての質疑応答」のステップがあります。買い手候補企業の

買収先の探し方

買収先の探し方

買い手の相談先でご紹介したように、M&A仲介会社などパートナーを選定したら、いよいよ買収先の候補企業を探すステップに移ります。本記事ではM&A仲介会社を通じてお相手探しを行う主な方法について、日本M&Aセンターの例をもとにご紹介します。買収先の探し方①譲渡案件型お相手探しは大きく「譲渡案件型」と「仕掛け型」の2つにわかれます。譲渡案件型は、M&A仲介会社が保有する売り手企業(譲渡を希望する企業)の

買い手がM&Aを行う目的

買い手がM&Aを行う目的

買い手の買収戦略には様々な目的があります。M&Aの成功に向けて、押さえておきたいポイントを確認していきましょう。【登録無料】買収をご検討の方は、希望条件(地域、業種など)を登録することで、条件に合致した譲渡案件のご提案や新着案件情報を受け取ることができます。まずは登録から始めてみませんか?買収希望条件の登録はこちらM&Aの目的①市場シェアの拡大企業は競合他社を買収することで、自社の市場シェアを拡大

「買収・合弁企業の設立・海外M&A・上場企業・クロスボーダーM&A」に関連するM&Aニュース

大塚HD、米ICU Medicalが新設する輸液事業会社を買収

大塚ホールディングス株式会社(4578)は、100%子会社である株式会社大塚製薬工場(徳島県鳴門市)の米国子会社であるOtsukaPharmaceuticalFactoryAmerica,Inc.(米国・イリノイ州、以下:OPFA)が、ICUMedical,Inc.(米国・カリフォルニア州、以下:ICUMedical)との間で、ICUMedicalが新設する輸液事業会社に資本参加することで合意し、

KADOKAWA、韓国総合エンターテインメント企業BY4M STUDIOKADOKAWAと合弁会社を設立へ

株式会社KADOKAWA(9468)は、3月5日、韓国における総合エンターテインメント企業であるBY4MSTUDIO(韓国・ソウル、以下BY4M)との間で、文芸・ライトノベル・コミックなど日本のコンテンツを翻訳出版する合弁会社発足のため、BY4Mの出版事業部門を分割して新会社を設立し、KADOKAWAが有償増資により当該会社株式の55%を取得することに合意した。KADOKAWAグループは、多彩なポ

宝ホールディングス、ドイツの食材卸カーゲラー社を買収

宝ホールディングス株式会社(2531)の子会社である宝酒造インターナショナル株式会社(京都市下京区)では、ドイツ・ミュンヘン近郊で食材卸売業を行うKagerer&Co.GmbH(ドイツ・ミュンヘン近郊、以下:カーゲラー社)の出資持分90%の取得を決議した。宝酒造インターナショナルは、グループ会社管理、酒類・調味料の輸出販売等を行っている。カーゲラー社は、魚介類および日本・アジア食材・調味料の輸入・

コラム内検索

人気コラム

注目のタグ

最新のM&Aニュース